カサンドラな私の熟年離婚

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自分のことも全力で -母の生き方-

前回までに母は人のために尽くすことに惜しみなく力を注ぐと書きました。

その記事はこちら⇓

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ですが人のためだけでなく自分のやりたいことも全力でやった人ではないかと思います。

 

私の父(母の夫)が亡くなった時、まだ母は30歳ちょいくらいだったはずです。

 

私はたしか6歳でした。

 

それから女手一つで私を育てたわけですが、大変だったことと思います。

 

私を当時の言い方で「かぎっ子」にしないために自宅で洋裁の仕事をしていました。

 

でも会社勤めではないことで自由ではあったと思います。

 

ゴルフを始めました。

そのゴルフスクールで仲良くなった女性4人グループで、ゴルフ以外にも親しくしていました。

 

ゴルフのコースを回る日に私が熱を出したりしても予定通りゴルフに行く人でした。

 

私は自宅で一人寝ていて、近所のおばちゃん(他人w)がうどんを持ってきてくれたり、時々様子を見に来ました。

また当時は近所の内科の先生が昼休み時間に往診に回っていたので、私の所にもやってきて診察をして注射とかして帰っていました。

母が頼んでいたのでしょう。

 

今では考えられないですよね。(笑)

 

小学生の子どもが熱を出して一人寝ている。

家の鍵は開きっぱなしで、近所の人やお医者さんが勝手に寝ている部屋まで入ってくる。(笑・笑)

 

また学生時代の友人が旅行会社に勤めていたのですが、直前にツアーにキャンセルが出ると人数が足りず催行できなくなるため、母に声をかけるのです。

料金は凄く安く海外旅行などに行けるチャンスです。

 

しかも2日後とかから。

 

母は大抵友人を誘ってササッと海外旅行に行ってしまっていました。

 

私には「あんたは大人になって自分で稼げるようになってから行きなさい」といっていました。

学校もありますしね。

 

小学生くらいの間はそういう時は近くに住む叔母の家に預けられていました。

 

学校へは少しだけ遠くなる感じ。

 

 

それ以外にも飲みに行って夜中に帰ってくるなど、楽しんでいましたね。

 

昔から母の姉妹は町内の美人姉妹と言われていたそうで、そのうえ未亡人となった母は男性にもモテモテだったようです。

 

私が高校生くらいのころから現在のパートナーさんと付き合うようになりました。

(それまでにも色々あったようですが)

 

夫の顔色をうかがいながら自分のことは何もしてこなかった私に比べたら、充実していて幸せだったんじゃないでしょうか。(一歩間違えれば毒親かもという気もしなくもないけどw)

 

続きます。

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